「まもる」が「まもる」につながるお話

晴れると緑が目に眩しい季節となりました。昨日も今日もリュックを背負った幼稚園児や小学生の集団とあちこちで出遭いました。最寄りの駅までの道も地元の小学生で溢れていました。高尾山に行くのだそうです。

この辺からですと多摩動物公園や昭和記念公園といったところも近いので、都心の方からも大勢の園児や児童がやって来て、今の時期は実に賑やかです。春先には下見らしい保育園の先生方の姿も電車内で見かけました。手作りの栞を手に駅の確認などをなさっている先生方の中に、明らかに先生になりたての方がいっらしゃるとすぐにわかるものです。初々しいムードがあるからなのでしょうね。

新入生の子どもたちがいる一方、先生方にもフレッシュな方がいらっしゃるわけで、子どもたちも先生方も新しい世界でがんばっていっていただきたいなと願う気持ちになります。足りないところを見つけて文句をいうのは簡単です。でも次代を担う子どもたちのためには、フレッシュマンである先生方をもまた見守っていくのが、地域に限らず世間一般の大人の役目であると感じます。

「まもる」はもともと「目守る」ことでした。目を離さずにじっと見つめる、つまり見守るという意味だったのですね。

今の世の中、自分は安全なところに身を置いて批判だけするということが簡単にできるので困ったものです。匿名でのネットへの書き込みなどもその一つです。そしてすぐに「炎上」なんていう現象が起こります。日曜日のサンデージャポンという番組で、テリー伊藤が匿名での誹謗中傷について「トイレの落書きと同じようなもの。インターネットというツールを使っているから一人前の人が言っているように勘違いしてしまうけどね」というようなことを発言していて、妙に納得してしまいました。

ひょっとしたら「炎上」を楽しいと思う人の心自体が、疎外感に満たされているのかもしれませんね。そういう人をもまた見守っていかねばならないのかもしれないなと思います。どんなに恵まれた環境にあっても勝手に疎外感を持ってしまうタイプの人も中にはいらっしゃいますけれども・・・。

亡くなった母はしょっちゅう、「みんなが幸せじゃないと困っちゃうのよ」と言っておりました。母の言う「みんな」の範囲は「親類みんな」だったかと思います。でも案外的を射たことを言っていたかなと最近思います。

不満や不足の気持ちを強く持っている人がひとりいて自己主張を強くする人だった場合、集団はうまく機能しないことがあります。盛り上がらないし空気が冷めてしまい、つまらないムードに支配されてしまったりします。でも大概の場合は、たとえ不満や不足があってもみんな何となく自分の意見をおしころして集団に合わせることをしがちです。違う意見をいうと「空気がよめない」とか「協調性がない」と言われてしまうからです。

一時的に「まっいいか」と思ってもそれが度重なるとつらくなります。自分をころし続けることは悲しいです。それがどこかで爆発する。その方法がネットの誹謗中傷というかたちになったとしたらとても残念です。

疎外感をもつ人を生み出さないためにも、もっとみんなで本来の意味の「まもる」つまり見守るということをやっていきたいものです。ちょっと話を聞いてあげるとか、「だいじょぶ?」と気にしてあげるだけでも心が救われるかもしれません。自分さえ安心で安全ならよいなんてことは決してありえないことを、そろそろ私たちは気がつく頃ではないでしょうか。

口や手を出す前に「目守る(まもる)」ことをお互いに、そしてみんなでしていきたいですね。それが回り回って、自分や自分の大切な人を「まもる」ことにつながると信じています。明日もまた皆さまが幸せでありますように♡