いちはつの花を見て毎年思うこと

この時期、我が家は玄関をあけると、ほのかな香りが漂います。猫の額ほどの庭に咲きはじめたスズランの香りです。スズランはフランス語では「ミュゲ」と言って毎年5月1日に愛する人に贈るのだそうです。白い可憐な花が清楚ですね。

お花は別に人の心を慰めようとか励まそうとか思って咲いているわけではないかもしれませんが、私たち人間はどれだけお花から元気や喜びを与えてもらっていることでしょう。お花がしてくれる程のよいことを今日私は誰かにできただろうか、とふと思ってみたりします。

実はスズランの咲く直前まで、いちはつという花が咲いていました。アヤメによく似た姿で、我が家に咲くのは白い花です。4月半ばになるとこの花が毎年忘れずに咲くのです。そしてこの歌がいつも頭をよぎります。

いちはつの 花咲きいでて我が目には 今年ばかりの春ゆかんとす  正岡子規の短歌です。

結核で血を吐いたことから「鳴いて血を吐くホトトギス」という意味をこめて子規と名付けたのだとか。自分の病気すらネタにしてしまう精神はすごいです。苦しみに埋没しないで、どこか客観視する目。だから自分の病を詠んだ歌にも切なさこそあるものの、どこかひょうひょうとしたものが感じられるのかなと思います。

重い病で床に臥せっていた子規には、この春が最後の春だとわかっていたのしょうね。子規というと横顔の写真が有名ですが、あの写真を撮影したときは既に身体を動かすのも辛かったのだそうです。それであのポーズなのだと聞いたことがあります。

俳句も短歌も自由に詠んだ天才子規の人生はわずか34年でしたが、その人生の中身はとても濃いものだったのではないかなと思います。

長生きは素晴らしい。でも大切なのはやはり中身、そしてどれだけ自分以外の人のために生きることができるかが重要ではないかな・・・毎年春の終わりにいちはつの花を見てそんなことを思うまだまだ生ききっていない私です。