君子ってどんな人?

今日は節分。節分は、本来季節の変わり目ごとにあるものです。立春・立夏・立秋・立冬の前日どれもが節分なのですが、今は立春の前日の2月3日のみが注目されるようになりました。

おにたのぼうし」という絵本をご存知ですか?あまんきみこの作品いわさきちひろの絵がぴったり合った切なく優しいお話です。おにたという心優しいこどものおにがお母さんが病気の女の子の家に忍びこみます。豆まきの豆もない家だからです。角かくしのむぎわらぼうしをかぶったおにたは女の子にご馳走を運びます。すると女の子は言うのです。「あたしも、まめまき、したいなあ。」

何と無邪気で残酷な言葉でしょう。それを聞いたおにたは、かなしそうに言います。「おにだって、いろいろあるのに。おにだって・・・」そうして姿を消してしまうのです。後にはぼうしだけが残ります。そして女の子がぼうしを持ち上げると、中にはまだあったかい豆があるのです。

誰にも気づかれることのない究極の愛を、おにたは自己犠牲のうちに女の子に示しました。

この優しいおにたのことを思うと「鬼はそと」というのが憚られて「福はうち」としか言えなくなります。そういえば、成田山新勝寺の節分会も「福はうち」しか言わないのだとか。鬼すら心を入れ換える程の功徳が成田山にはあるからなのだそうです。

 

さて今日は、「君子」について今年度関わった教え子たちが残していってくれた言葉をご紹介致します。

母からよく聞かされていた言葉に「徳は孤ならず、必ず隣あり」といのがあります。「隣」は「りん」とも「となり」とも読みますが、「世の為に何かことを起こそうとした時、ひとりぼっちなんてことにはならないさ、必ず良き理解者が現れるものだ」という風に私は解釈しています。志溢れる生徒たちに、私もいつからかこの言葉を贈るようになっています。君子をどう解釈しているか尋ねた、その答えは次の通りです。

自分が何か困っている時に、向こうから気づいて助けてくれる親切で思いやりのある人や、何をするにも最後まであきらめずにやり遂げる人。(N・M)

人に的確なアドバイスを送ることができ、人の喜びを自分のことのように嬉しがってくれて、たとえ自分が傷ついたとしても他の人を傷つけることは決してせずに、常に優しく人の心配もできて、人を外からでなく内面の性格から判断できる人。(K・Y)

向上心を持たせてくれる人。この人のようになりたいと人が自然と思ってしまうような人。その人を越えることができなくとも、せめて追いつけるようになりたいと目標にできる人。(S・M)

自分のやりたいこと、意志をしっかり持って、その上で人のためを思って行動できる人。人生における小さなことから大きなことまで全てを受け入れ、より良くしていこうと努力する人。自分ひとりよければいいのではなく、周りに配慮して、困っている時は手をさしのべ、喜び悲しみに共感して受け止められる人。(A・U)

いざという時に、もしまわりに共感してくれる人が少なくても、「悪いことは悪い、これは正しいことじゃない」ときちんと発言できる人。そして正しい方向へ導いてあげられる人。(S・M)

自分の決めた正しいと思った道をひたすらに進んでいこうとする人。バイト先にお客様を「数字やお金」として見ている人が結構います。私はそれが嫌で、孔子のように忠恕の気持ちで接し、また行動したいと思っています。ですから、私にとっての君子は私自身の中にいると思います。(M・T)

私にとっての君子はお母さんです。私を産んだ時から今までずっと一人で育ててくれました。そして18年の間にたくさんのことを教えてくれました。「自分の望まないことは人にしてはいけない」という孔子と同じことを母も強く私に語って聞かせてくれます。(M・F)

あらゆる方向から物事を考え、人に教えながら自らも学び続けることのできる人。(M・S)

君子とは「徳のある立派な人物」を言うようですが、当たり前のことを当たり前のように出来る人のことだと私は捉えています。やって当たり前とも思えることを自然にできる人こそ「君子」だと思います。(A・W)

 

珠玉の言葉たちです。