常識を疑ってみる

「先生って常識、きらいでしょ?」教えている高校3年生の生徒に先日そんなことを言われました。「よくわかったね」と答えたら、ふふふと笑って「見てればわかりまぁす!」ですって。その通りです。この世には「常識」よりもっと大切なものはいっぱいあるような気がします。

 

出勤するときに、駅に向かう通りで家の前のお掃除をしているおばちゃまが「いってらっしゃぁい」と声をかけて下さいます。「いってまいりまぁす!」と答えます。心がほわっとあたたまり、ありがたいことだなと思います。ところが、数年前にナントカ流の行儀作法の先生がテレビで「お外でいってらっしゃいなんていう声かけをなさるのは間違っております。その方の家に帰って行くわけではないじゃございませんか。常識ですよ」とおこたえになってました。

なんてつまらない行儀作法の「常識」かなと思いました。そんな理屈よりも、あたたかい声かけである「いってらっしゃい」は価値ありです。通学路になっている自宅前を通る児童に、私も「いってらっしゃぁい」と声をかけています。

では質問です。学校はやめたらいけませんか?  NOです。高校や大学であれば、せっかく入学した学校だからといってしがみつく必要はありません。つまらないなら入り直せばよいかもしれません。死ぬほどつらいなら辞めたほうがよいでしょう。ほかに才能があるならば学校にいってる場合ではないかもしれません。休学して外の世界をみてきたら考えも変わることだってありますね。

それでは小学校や中学校など義務教育の場合はどうでしょう?やめたらいけませんか?  これもNOです。行きたくないとしたら何か理由があるはずです。無理にいかせてはいけません。忍耐力がなくなる?いいえ、甘やかしはマイナスですが、楽しいところでしたら子どもは「行くな」と止めても行くものです。じっくり様子を観察して、場合によっては「行かない」選択をするのがよい場合が多いです。

古来、学校に行かなくてその道の一流になった人はたくさんいるではありませんか。学校は楽しいから行くところです。忍耐や精神の鍛錬は、尊敬する人物と出会って「この人のもとでなら」と思ったときに進んでするものではないのかなと考えます。

大切なのは、ひとりひとりの幸せです。どうすることがその人にとって幸せなのかは難しい問題です。本人が感じ取っていることもあるし、まわりが気がつくこともあるでしょう。その時点では誰にもわからないかもしれません。常識を超えたところにあることだって考えられます。

 

四柱推命で「人間観察・モニタリング」」をさせていただくと、「常識」よりも「良識」を大切にされている方のほうが肩の力を抜いて自然体で生きてらして、その方の望むしあわせに近いように感じます。

今日の毎日新聞の朝刊一面に、「10代で『投票に行く』と答えた比率は66%で、有権者の意識が浸透しつつあることが結果からうかがえる」とありました。20歳の選挙権は既に18歳に移行しています。選挙年齢の常識も変わりました。

生きやすい世の中のために、これからも「常識」を変化させ続けていきたいものです。マナーやお作法は、「そうあるべき」ということではなくて、優しい心や美しさを尊ぶ感性から生まれたものだと思うのです。人と共に変化させてもよいのではないでしょうか。

本日もお読みいただき、まことにありがとうございました。