愛する人をなくすこと

する人と永遠に一緒にいたいと、人を愛したことがある人なら誰でも願うことでしょう。愛する人は、親や子ども、妻や夫、恋人や友人、親族に恩師・・・人によって様々でしょう。その大切な存在を失うことは思っただけで辛いことです。

私もそのように強く思っていました。母のひと回り年上の伯母に幼い頃より私は大きな影響を受けて育ったので、この伯母がいなくなったら世界は終わってしまう!と思っていました。伯母のいない世界などあり得なかったのです。チャキチャキで元気な母に対して、落ち着いた柔和な人柄の伯母は私の鑑(かがみ)でした。

4年前、伯母は91歳で人生の幕を閉じました。自分の幸せを後にして、周りの世話と神仏への信仰をよくした美しい人生だったと思います。亡くなった時は悲しくて喪失感でいっぱいでしたが、先の長くない母のこともあったからでしょうか、そうとばかりも言ってられない状況に追われたことは私に「世界の終わり」を感じさせる暇を与えませんでした。

そして意外なことに、「さみしさ」よりも「あたたかさ」を私は伯母の死から感じたのです。きっと生前と同じように、私を指導する存在として近くにいてくれたのでしょう。四柱推命の道に導いてくれたのも、もしかしたらこの伯母かもしれません。

 

この話の裏付けとして、今日も「過去世ソウルヒーリング」(ブレンダ・デーヴィス著 三木直子訳)から示唆に満ちた言葉をお届け致しますね。

死とは、今いる次元からもといた魂の次元へ帰る、転移するというプロセスです

人生の終わりが近づいている人の、予期される喪失を嘆き悲しむのはごく自然なことで理解できるとした上で、

けれども、死の瞬間、あるいはその直前に、私たちは突然、魂は死後の存続するということを完全に理解します。そしてほとんその人には、実際に肉体を去る瞬間のみであったとしても、最期には平安が訪れるのです

さらに

今いる次元から、私たちがもともとそこからやってきた魂の次元に戻る、その転移についてもっと学ぶことによって、私たち自身も周りの人も、それがいつ起ころうとも平安で、美しくさえある死を迎える心の準備をする一助となります

そして私を最も勇気づけるのは、「早すぎる死はない」という言葉です。「もっと生きていたら」と残された者は考えます。せっかく〇〇だったのに・・・もう少しで〇〇できたのに・・・という具合に。坂本龍馬しかり、土方歳三しかり、滝廉太郎も正岡子規も樋口一葉も。モーツアルトもショパンもゴッホもしかり。もっと長く生きてくれていたら、もっとたくさん活躍していたのでは。もっと作品を残してくれたのでは。

でも、亡くなった人の魂はその時点で完結しているのだそうです。十分生ききったと考えてよいそうです。そういわれると、どの方も十分いえ十二分の生を生ききったとはいえないでしょうか。これ以上何を彼らに望むことができましょうか。

あなたの身近な方はいかがですか?早くに亡くなって惜しまれているその方はもしかしたら天才的な活動をされましたね。あるいは病気と最期まで闘って実に立派な人生を過ごされませんでしたか?生きるのを少々急いだように思われる人は、人一倍頑張ったのだとも言えますね。

では、愛する人を失った者はどうしたらよいのでしょう?ブレンダは言います。愛する人の死から、私たちは「生きること」と「愛すること」を学ばせてもらえるのだと。そして愛する人は魂となって生き続け、むしろ自由になって穏やかな旅をまた続けていくのだといいます。そして大概の場合、深い縁で結びついた者同士は、また次の世でも役割や立場を変えて共に生きるようですよ。

愛する人は、あなたが明るく微笑んで毎日を精一杯生きていることをきっと願っていることでしょうね。もしその方がやり残したことがあるとお考えなら、その役割を引き継ぐということも喜ばれるかもしれませんね。

やや重い話題になりました。本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。