暦の上では今日から「神無月」

栗や柿の美味しい季節となりました。暦の上では、今日から「神無月」、そう10月です。ご存知の通り、八百万(やおよろず)の神さまたちが出雲の国(島根県)に行かれて出雲以外は神さまが不在となるため「神無月」といいます。

では出雲は?

出雲だけは「神存月(かみありづき)」と呼ばれています。実際に島根県を訪れたときカレンダーを見せていただくと、10月は確かに「神在月」となっていました。出雲大社もあるせいか、島根県は何やら特別な感じがしますね。

もともと日本では、木にも石にも山にも海にも神が宿っていると考えられていました。そして民話や昔話にはこの発想で作られたものが多いですね。

そして木とはお話できるし、石には強い意志があるということは実際に体験しました。

果物や花を育てるのにモーツアルトを聞かせたり、酵母を発行させるのにバロック音楽を聞かせている園芸家や酒造家もあるようです。ゆったりおおらかに育ちそうな気がしますね。

義父は退職後、趣味を兼ねて植木のお仕事をしていました。我が家の庭に百日紅(さるすべり)があるのですが、私が嫁いでくる前に全く花をつけないことがあったそうです。義父は「来年も花を咲かせないなら枝を伐っちゃうよ!」と語りかけたそうです。すると不思議、伐られたらたまらないと思ったのでしょうか、次のシーズンには花を咲かせたというのです。

夫の父は、不思議なこととか奇跡とかはまず語らない人でしたから、この話を聞いたとき耳を疑いましたが、実体験を以て語っていたので印象に残っているのです。もう25年も前のことです。

またこれは義父がご近所で聞いた話だったかと思います。

あるお宅の柿の木の枝が長くなって、隣りの敷地まで伸びてしまったそうです。枝が伸びれば葉っぱが落ちる。葉っぱは迷惑、枝を切ってほしいという申し入れがあったとか。柿の木の家のご主人は困った。そこで柿の木に「葉を落とさぬように」と固くいいつけたというのです。すると切られたくなかったのでしょうか、柿はその枝に葉をつけなくなったというのです。

本当でしょうか?

それから間もなくして義父は病気でこの世の人ではなくなってしまいましたので、今となっては確かめようもないのですが、この話を聞いたとき、単純に「木も言葉がわかるのね」と思いました。

 

神社に行くと、大きな石(岩)や樹木に注連縄(しめなわ)が張られていますが、現世と神域との境をあらわすものであるようです。樹木や岩には精霊が宿っているのでしょうね。

この夏、勉強会で石とお話することを試みたところ、声は聞こえなかったのですが代わりに文字が浮かんできました。私はアメジストと向き合ったのですが、「自由」の二文字が映像で見えました。先生がその石と向き合ったときもやはり同じような現象が起こったそうです。ピンク色の水晶をリーディングした人は「愛」のメッセージが感じられたと言ってました。

石は寡黙であるけれど、確かな意志なり意思を持っているようです。

 

また、山には山の、海には海の神様がいるようですよ。「山開き」や「海開き」の神事は、いきなり人間が入っていって驚かさないように前もってお断りする儀式なんでしょうか。「ごめんください、お邪魔します」ということではないかなと思うのです。

そして、それぞれの土地には産土(うぶすな)の神様がいらしてその土地を守って下さっています。氏神様というのは産土の神さまのことなのです。

さらには、そういった土地土地の神様たちは、それぞれに連絡を取り合っているとも聞きます。

目には見えないけれども不思議なことってたくさんありそうです。見えてしまう人というのもいらっしゃいます。このタイプの方というのは、神さまだけでなくて亡くなった人の霊なども見えてしまうから大変ですね。特別なミッションを持って生まれてらしたのでしょうね。そしてそのミッションに気づくために、色々と「普通の人」に起こらないようなことが身のまわりで起こるようです。

長くなりそうですので、今日はこの辺で。

本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。