桜の色

今日18日、東京・日本橋で、ライトを使って建物や通りをライトアップする「桜フェスティバル」というものが始まったそうです。和のイメージを演出しようと、100個の桜模様の提灯に加え短冊まで飾られていて、風で短冊が揺れる風情や、地面に映し出される桜の模様や桜吹雪が、街を行き交う人々の心を和ませているそうです。

桜の季節になると必ず思い出す話があります。高校生のときに出会った、桜色の染め物についての文で、詩人で評論家の大岡信氏の文章です。大岡さんは、朝日新聞の「折々の歌」というコーナーで毎日「歌」を紹介してらした方です。次のようなものです。

京都の嵯峨野に住む染色家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心をを吸い込むように感じられた。

「この色は何から取り出したんですか」

「桜からです」

と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際これは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンク色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。

このあと、大岡氏の文は、「一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味」という風にご自分の言葉とのかかわり方へと向かっていきます。その人が発する言葉の後ろにあるものの大きさということでしょうか。

高校生でこの文章と出会ってからというもの、私は桜を見るたびに、あの花は木全体で咲かせているんだなと考えずにはいられなくなりました。そして桜は、すなわち「人」であり、「花びら」はその人の発する「言葉」「振る舞い」「表情」なのではないかなと思うのです。

私たちが意識しているよりずっと、私たちの「言葉」や「振る舞い」や「表情」には自分の本質が出ているのかもしれません。

では、中身が完璧に変わらないうちはその人は変わりようがないのでしょうか。

花が咲き終わった桜の木に、花を再びつけることはできませんが、人はちょっと違うのではないかと私は思います。

内面が美しければそれは最高にすばらしいし文句のつけようがありませんが、そうでない場合は、まずかたちや言葉だけでもきれいにしてみることで内面まで変えていくことができるのではないかと思うのです。

幸せを引き寄せるのは、ハッピーでラッキーな言葉ではないかと思います。自分がきれいな桜でなくても、桜色の言葉を発することで幸せ体質に近づけるのではないかと思うのです。それが後付けの開運方法だと考えます。

桜の色は自分で生み出すものですが、ちょっと足りなかったら意識して足してみる、そうやって幸せを迎えにいきたいものですね。