現実と思い込み その2

人って完全なる客観視はできない!ということをかつての私は思っていました。

誰でも自分の目や心というフィルターを通してしか物を見ることができない! と思っていたのです。

 

それは紛れもない、私自身がそのように生きていたからでもあります。

 

たとえば今、私の住まいの玄関には引越しのお祝いでいただいた向日葵の花が花瓶に挿してあります。

小ぶりの向日葵たちはガラスの花瓶に映えて、とても可憐です。

 

でも、慌ただしい朝は、玄関の向日葵を愛でる心の余裕などなかなかありません。

そんな自分に気づいて、今日は「おはよう♪」って話しかけて玄関を出ましたが、可憐だなぁと思ったかなというと自信ありません。

 

寂しいと私の心が感じていたとしたら、向日葵を見ても寂しいと見えるでしょう。

良いことがあって朗らかな気持ちで向日葵を見たら、向日葵が笑って見えるかもしれません。

それこそ、太陽のように輝いて見えるかもしれないし、

同じく太陽のようだと感じたとしても、真夏の太陽のようにギラギラして暑苦しいという意味かもしれません。

 

私は、このように、長らく「人というものは本当に客観視するなんて無理!」と思っていました。

でも、そこに「区別」ということを持ちこんだらどうなるでしょう?

 

この続きはまた明日。

本日もお付き合い下さいましてありがとうございました。