開運~ご先祖の供養~

「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、お彼岸はご先祖が三途の川のあちら側(彼岸)からこちら側(此岸)に帰ってくる時と言われています。3月が春のお彼岸、9月が秋のお彼岸。同じお供え物でも、春のものは「ぼたもち(牡丹が由来だとか)」、秋のものは「おはぎ(萩に由来)」と言われていますね。

帰ってくることができるのは、きちんとあの世にいくことができた「仏」です。あの世に還れず、この世をさまよい続ける「霊」もいるようです。いろいろな方から、幽霊を見たとか、ひと気がないのに物音を聞いたなどという体験話を聞くと、この世をさまよう霊の存在は本当であろうと思います。

さて、亡くなった方がきちんと死んだことを理解してこの世から離れることを、仏教の教えでは「仏」になる、「成仏する」と言いますが、肉体から魂が離れてもともとの世界に還ることだと私は理解しています。生きているときに、魂のレベルがステップアップできていれば、次にこの世に肉体を持って登場する、すなわち誕生するときに次の段階の使命が待っている、反対に途中でギブアップしたり、自分の魂を傷つける生き方をした場合は、次に誕生するまでにしばらく「待機」の状態が続いたり、また振り出しに戻ったりするのかなと思います。

それは、まるで双六のようだと思います。では「あがり」はどうなることなのでしょうか?それは、神に近づくことなのかなという思いをこの頃深めています。神道では、亡くなることを「神あがる(かむあがる)」と表現することからも、人間の最終ゴールは「神と共にいます」ということなのかしらと感じています。宗教によって表現の違いはあるものの、目指すところは同じなのではないかとも考えます。

しかし、これはずっとずっと先の話。何度も生まれ変わって魂が浄化されるまでに、いったいどれくらいの「行い」が必要なのでしょうか。それはよくまだわかりませんが、生まれ変わるためにはまず「成仏」しなければなりません。魂が肉体から別れることを認識する必要があるのです。

昨日ご紹介した「死んだらおしまい、ではなかった」の著者で大念寺ご住職の大島祥明さんは、実に2000人の方の葬儀を執り行い、死者の霊を実感なさったそうです。霊が確かに実在するものだということを伝え残すために、一件一件記録して二千件以上のサンプルデータをもとに、わかりやすくまとめあげられたのがこのご本です。

大谷さんは葬儀の時に「本人のてごたえ」を感じるのだそうです。「本人」とは「故人の霊」のことです。その手ごたえは、生きている人よりも、死んだ人の方がわかりやすいのだそうだとか。なぜならば、生きているうちは、心が瞬間瞬間で変化するけれども、亡くなると、その時点で心のありようが止まるからだそうです。

そして、人は死によって真の「本人」が現れるのだそうです。死によって身体と離れると、外側の被い(おおい)が取り除かれて「本人」だけになると言います。本質が現れるということです。一般に「霊魂」とか「たましい」と呼ぶものを大谷さんは「本人」とおっしゃいます。

その「本人」つまり亡くなった方の霊が、「この人なら理解してなんとかしてくれる」と感じて大谷さんに関わりを持ってくるのです。しがみつかれたり、よりかかられたりするのは、心身共にかなりきついとおっしゃいますが、世のお坊様でこのようなことができる方はそう多くはないでしょうから、大谷さんに人気集中ということでしょうか。

自分に霊に応えるだけの力量と覚悟が備わっていなければ、不必要に霊に悩まされることにもなりかねない大変な任務となりますから、安易に霊に応えようとするのは危険です。そうすると霊の障りのみ受けてしまうことになるのでしょう。

昭和60年8月12日の日航ジャンボ機墜落の事故の葬儀の導師も勤めたご経験も、本の中で触れられています。葬儀でお経をあげている時に、副操縦士の、事故発生から墜落にいたる気持ちを強く感じとったそうです。副操縦士は、機体の異常を感じ、トラブルの発生を知ると、5分ほど機長に怒鳴られたのだそうです。その時のムカッとした思い、そして非常に憤慨した感情、必死で操作をしたものの全く効果がなく焦燥と無念にかられる思いが、10分から15分くらいの間、お経をあげる大谷さんに強烈に伝わってきたのだそうです。

感じ取ったことをご遺族にお伝えすると「どうしてそんなに詳しくわかるのですか…」と不思議がられたそうですが、葬儀の翌日19日の朝刊に掲載されたボイスレコーダーに、衝撃音に続く機長の怒鳴り声と副操縦士の返答内容から、大谷さんが感じ取った内容と完全に一致することが明らかになったとのことです。

また、突然の事故によって死を迎えた場合、「本人」は死んだという自分の状態がまったくわからないことが多いそうです。それで亡くなった後も自分の死に気がつかなまま事故現場の近くをさまよっている場合があるのだとか。それが「呪縛霊」や「地縛霊」となって生きている人に気づいてもらおうと障りを起こすのです。

故人が死んだことに気づかない場合は、実際に事故現場に足を運んで、「本人」に「自分は死んだ」ということを知ってもらい、霊である本人を自宅に連れもどさなくてはならないと大谷さんは語り、実践されてきました。

では、葬儀の意味とは?

葬儀とは、死によって身体と「本人」が分かれたときに、その「本人」に対して遺された者たちや僧侶が、儀式や言葉でもって「あなたは、亡くなったのですよ」と教えてあげることで、この世への執着や未練を断ちきってもらう場なのだそうです。

そして「あなたはまちがいなく死んだのですよ」という事実を死者に宣言するのが引導を渡すということで、引導を渡すことによりもはやこの世にはもどれないこと、この世の未練を断ちきって浄土に進むしかないことを悟らせるのが葬儀を行う意義だと言います。

通夜・葬儀・初七日・四十九日と回を重ねていき、何度も何度も「あなたは死んだのですよ」と伝えていくことで、「本人」も次第に死を自覚して成仏の方向に向くのだそうです。この世からさようならするのは個人差があるものの平均49日だと仰います。

では、遺族のなすべきことは?

それは、遺族が心から祈ることだそうです。

それぞれの故人が、いまどのような思いでいるのか。

どのようなことをしてもらいたいのか。

なにを訴えているのか。

どうしたら安心してもらえるのか。

どうすれば喜んでもらえるのか。

そのことに思いを馳せることが最も大切で、その心からの祈りがほんとうの供養になるのだそうです。

 

具体的にはどうしたらいいのでしょうか?

お墓やご仏壇に手を合わせご先祖に思いを寄せること、それが故人のご供養になると大谷ご住職も教えてくれています。

今日は抹香臭いお話でしたが、ご自分の開運のためにとても大切なことです。私自身の実践例も、またいずれお話し致しますね。本日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。