「二元」を手放してみたら・・・

師走になりました。

「師走」の言葉の由来は、本来ゆったりしている「師」でも走り回る程に忙しい頃である、というのが覚えやすいですが本当のところはよくわかっていません。「師」にもいくつか説がありますが、いまどきの先生は一年中走り回っている気がします。

 

さて先生という仕事をしていると、どうも自分の価値観を押し付けがちになるのではないかなぁと思ったりします。

自分の哲学をもっているのは素敵かもしれないけれども、人それぞれ色々な尺度があってもよいのかなと思うのです。

みんながみんな同じものが好きで同じ方向を向いていたらかえって気味悪いことですものね。

 

私が長いこと抱えていたものは「正義」でした。

そして「正義」の旗を掲げているということは、「あなたの考えは間違っている」ということにもなりかねないわけで、そうなってくるとちょっと息苦しくなってくるのです。

つまり、ジャッジをしてしまっているんです、神さまでもないのに・・・

 

誰でもジャッジされたら気持ちよくありません。

そこには、本来望まない対立が生まれてしまうことになります。

よいわけありませんね。

 

では、正しいと思うことを主張してはいけないのでしょうか?

 

そもそも「正しい」とは何なのでしょうか?

 

なかなか難しい問題なので、卑近な例でお話してみますね。

 

「あの子(生徒)は悪い」という場合、何から見て悪いのかということです。

大概の場合は、先生(と呼ばれる人)の目から見て「悪い」という判断です。

先生は、自分の言うことをきいてくれる生徒を「良い子」という場合が多いように思います。

だから、そこから外れると「悪い子」となるわけです。

 

理不尽なことですね。

 

たとえば勉強をしない悪い子→もっとほかに面白いものを知っているのかもしれません。

遅刻をする悪い子→悪いのは体調かもしれません。夜中、同居のおじいちゃんのお世話をしていたのかもしれないし、ただの電車の遅延かもしれません。生活の乱れだとしたら、そこは話をきいてあげないといけませんね。

いうことをきかない悪い子→先生のいうことが「正しい」とも限りません。案外「骨」のある子かもしれません。わがままだとしたら、その原因を一緒に考えてあげる必要がありますね。

 

ともかく決めつけない。つまりジャッジしないことが大切です。

そもそも抱えている問題の源は、本人ですら気づいていないことが多いのです。

だから話をきく姿勢が大切です。

 

つまり「寄り添う」ということです。

決めつけるのではなく、寄り添うのです。

そこから何かが見えてきます。

 

私たちの生きている世界は、直線ではありません。

一本の軸だとしたら何と味気ないものとなるでしょうか。

いろんな軸があるからこそ、深みがあり、面白みもあるのだと私は思います。

 

個性を尊重する、というのは、自分の枠から相手を見ない、ということではないでしょうか。

そして本当に相手の個性を認めたとき、自分の個性も生かされるのだと思うのです。

自分だけ自由で、相手は自分の言うことをきかせるなんておかしなこと。

 

それでも「正しい」ことを主張しなければならない時は、謙虚に❢だと思います。

「こんな考え方もあるよ」と言うのです。

選択するのは相手です。

 

本当に正義を説くなら、その前に「愛」です。

別の言葉だと「寛容」と言えるでしょうか。

もっと別の言葉だと「赦し」なのかな。

 

いったん自分の軸は置いておいて、相手のベクトルでみてみると、「なるほど、だからそういう行動をするわけね」とわかります。

 

私が「二元」を手放したのは、そういうわけでした。

「よい悪い」「正しい間違っている」や「優劣」「勝ち負け」をやっていると人の心には寄り添えません。

ヒーリングには邪魔になります。

 

これは日本人が大切にしてきた「和」の精神とも大きく関わってくることですね。

本日は、理屈っぽいお話におつきあいいただきましてありがとうございました。