「母の日」に母を思い出してみた

最寄り駅前に「鍼灸」に長けている接骨院があって、今日は連休の疲れが出たのかどうにもだるくて、駆け込んで鍼の治療をしていただきました。私は「鍼(はり)」と相性がよいらしく、鍼をうってもらった後は体も気分もすっきりします。

実はこの接骨院の先生は、「鍼(はり)」を持って世界の国々を旅してまわった経験のある方です。タイ、インド、ネパール、アフリカや南米や北欧の国々・・・「鍼(はり)」が「こんにちは」の挨拶代わりだったようで、言葉が通じなくても「鍼」で会話をしたとのことです。むしろ言葉は通じない方が面白いらしいのです。

私も日光アレルギーと虫さされさえなかったら、「安宿OK、着たきりOK」で諸外国を廻る旅をしてみたいなと思っています。でも実際には、砂ぼこりにもお風呂に入れないことにも耐えられないことでしょう。それでも、バックパック一つでふらりと旅に出ることへの憧れはずっとあるのです。土地の人と触れ合うような旅をしてみたいのですね、きっと。

さて、今日は「母の日」。

自分が祝われるのは気恥ずかしいですけれども、誰かのお祝いというのは大好きです。「おめでとう」という言葉に満ちている祝福の気持ちはいいものですね。人を祝うのは嬉しいものです。

私の母は、「人の喜ぶことをするのが好きな人」でした。ですから常にまわりに人がいました。きっと一緒にいて楽しい人だったのだと思います。私は結婚してから、あまり実家に帰る娘ではなかったのですが。それでもたまに帰ると必ずといっていいほど、親戚や母の友人知人が数人集まっていました。母は独り暮らしでしたが、孤独を感じることはまずなかったのではないかと思うのです。

その母が大病を患って数時間にも及ぶ手術で何とか命をとりとめ、退院後さすがに一人にはしておけないというのでしばらく我が家に滞在してもらったことがあります。私の何倍もシャキシャキしていた母ですが、病後はさすがに弱っていました。その母の様子に「あれ?」と感じたのは、我が家に来てしばらくした頃です。

テレビの歌謡番組を見て、若い演歌歌手の歌う姿にパチパチと手を叩いていたのです。小さな子どもがやるしぐさに見えました。かくいう私も、大好きなお笑い番組を見て手を叩いたりしていますけれども、母のは少し違っていました。

その後、だんだん表情が乏しくなっていきました。目から光が消えて見えました。とうとう認知症が始まったかと思いました。会話はちぐはぐとなり、もともと夜更かしの母は昼夜逆転となりました。「夜は寝てね」と言ったときに「親不孝!」と返されたときはどうしてよいかわからなくなりました。

そんな母の元気な時の口癖は、「持つべきものは、良き師良き友」というもので、生涯それを実践して生きた人でした。女学校時代からの仲間とは、テニス・登山・スキー・旅行、そして晩年は麻雀を楽しんだ程です。ありがたいことに、そのお仲間から退院後の母のところによく電話をいただきました。

電話口に出ると驚くべきことに母はシャキッとするのです。会話もごく普通です。認知力が落ちた人とは思えない普通の様子です。「ウソ―!」と思いました。びっくりしました。居間での様子と電話口でしゃべっている母とはまるで別人なのですから。

母の友人たちとは私が幼い頃からのお付き合いですから何でも話すことができるので、「ちょっと認知力が危ないんです」と伝えていたのですが、母の電話での会話からはその様子は伝わらなかったようです。

結果的にはそれが功を奏したのかもしれません。私たち家族が思っていたように、母の大切なお仲間たちまで母を認知症と思っていたらその後の回復はなかったかもしれませんでしたから。

我が家に6ヶ月ばかり滞在した後、母は自宅に戻っていったのです。奇跡が起こったと感じました。やはりここは母の生活の場ではなかったのでしょう。「樂」ではあったと思います。けれども「樂」より「友といる楽しさ」を母は求めたのでしょう。強い意志のもと、独り暮らしを再びしようと母は自宅に戻っていったのです。

それから病気は再発して、そのときはもう手がつけられない状態になっていて、しばらくの入院生活の後、ちょうど私の誕生日に母は亡くなりました。亡くなったのは朝でしたが、旅立つ瞬間、母のベッドを20人もの人が囲みました。母が大切にしてきた友人・知人、そして姪や甥に孫たち・・・

財産は残しませんでしたが、母からは「生老病死(しょうろうびょうし)」の全てを見せてもらいました。そして「持つべきものは良き師、良き友」という言葉は、私たちきょうだいの宝となっています。

「母の日」に母を思い出してみました。

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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この花瓶はビニール製で折りたたみできます。