気遣う人たち

女性初の都知事が誕生して一夜明けました。今回の選挙で嬉しかったのは、家族7人とも投票に行けたことです。朝一番で仕事の前に投票に行った子、アルバイトやお出かけの前に投票所に寄っていった子、義母も行く気満々で、杖をついて行きました。

最寄りの小学校といっても、お年寄りにとっては大変な距離であったりします。杖を持つと日傘はさせません。義母には私が付きそうけれど、行きたい意志があっても投票所までたどり着けない方も多くいらっしゃるかもしれないなと思いました。

暑さの中、小さなお子さんの手をひいて、あるいは大きなお腹を抱えて投票に行く姿も見かけました。一番に掲げる願いに違いはあっても、それぞれのささやかな願いが届く世の中であってほしいなと思います。

 

さて今日は、義母の「いきいき健診」なるものに付き添いました。血圧を測ったり、採血したり、レントゲンを撮ったり・・・今回伺ったクリニックはお医者さんがよい診断をなさるところです。見極める眼が確かなこのお医者さんは人柄もよいのでしょう。看護士さんたちも気持ちよく働いているのがわかります。

義母のお世話をして下さった看護婦さんは、やわらかい眼差しの素敵な方でした。高齢化のこういう時代ですから、お年寄りに優しく接して下さる方は増えたように感じますが、今日お世話になった方はごく自然に、実に当たり前に優しく気遣うことのできる方で、すごいなと思いました。

 

午後はクルマを西に30分程走らせて義父の眠る霊園にお墓参りに・・・。お墓に行かなくても、「おじいちゃん」はいつもすぐそばで見守っていてくれていると私は信じているわけですから、私のやってることはおかしなものです。

朝、「おじいちゃん」のお仏壇に手を合わせて、「おはようございます」そして「お墓にいってきますね」と報告して、帰ってきてから「ただいまぁ!」

いったいどこに本当はいるの?と自分につっこみをいれてみます。

おそらく「いつもどこかで見守っていてくださる」というのが答えだと思います。魂は自在なので、どこにでも存在できるものなのではないかと思います。

ではお墓に行く意味は?

これは「お参りした」ことによって気が楽になるという人間の側の事情なのではないかな。

故郷を遠く離れている人にとっては、ふるさとに帰り、ふるさとの方たちや町(村)や自然と心を通い合わせるといった意味もあるかと思います。

日頃故人を偲ぶ機会があまりない方にとってはお墓に行くこと自体がとても大切なことともいえます。自分の源を尋ねることともいえますものね。そして感謝の気持ちを伝えることができたら、それがよいお墓参りになりますね。

私の場合は、義母との心の交流の時間だと最近は考えるようになりました。

「おじいちゃん」の位牌があるお仏壇には毎日話しかけているので、もうそれで十分だと思うのですが、お墓参りに敢えて行くことで、義母の心の活性化と、お墓の掃除と・・・ということかなと、その時間も大切にしています。

不思議ですよ。「おじいちゃん」に尋ねたことは義母が答えてくれたりするのです。もう十年も前のこと、ひとりでいる時、お仏壇に向かって文句を言ったことがあります。様々な葛藤がありましたから。そのときも義母がその答えになることを語ってくれました。

ちゃんと「おじいちゃん」は見ていてくれるんだなと感じた出来事でした。

 

さて帰り道、義母と二人でファミリーレストランに。そこで隣りに座ったママは障害を持ったお子さんを連れていました。お子さんの車いすに義母の杖がひっかかりそうになった時に見せたそのママのさりげない「すみません、だいじょぶですか?」の声かけに、弱い立場の人への気遣いを感じて、なぜか涙が出そうになりました。若いママの美しい横顔、忘れられません。

本日もおつきあいいただきましてありがとうございました。